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『枕草子』職の御曹司におはしますころ、西の廂にて~情趣を楽しむこととマネジメントと

月初にHPの前月の上位パフォーマンスのお知らせが来るのですが、相変わらず強いのが「神社にも相性がある」、初詣シーズンでしたからね。そして、1月に伸ばしてきたのが「春秋の争い~秋はゆふぐれ」でした。おそらく、受験シーズンというのもあるかと。それならと久しぶりに今回は古文ネタから。

ただ、これ、私にとってはとっておきのネタです。この章段はとても長いのですが、話題は2つ。そのうちの後半のエピソードからです。受験生のためには原文対訳をやりたいところなのですが、そうすると1回では終わらず長期連載になりそうなので、ここは概略を紹介します。

旧暦十二月十日過ぎですから、太陽暦だと1月20日くらい、大雪が降りました。職の御曹司(上の大内裏図の真ん中右寄りにある内裏の右の上側)に中宮定子がいらしていて、そこに清少納言を含めて女房たちもお仕えしています。せっかくだから雪山を作ろうということになって、そこの庭に人を集めて(「参加者には3日休日、不参加者は3日休日返上」というお知らせまで出して)大きな雪山が完成しました。

そこで、中宮定子が「ねえ、いつまであると思う?」と問いかけます。お仕えしている他の女房たちが、十日とか、年内大晦日には残っていないと答える中で、清少納言は「一月十日過ぎまで」と答えます。さすがに「一月一日とか言っておけば良かった」と内心では後悔するものの、「ま、一度言ったことだし」とそのまま押し切りました。

このとき、帝が普段いらっしゃる清涼殿や、東宮のところ、弘徽殿(下の内裏図参照)や京極殿(当時の藤原氏の氏の長者藤原道長の邸)などにも雪山を作っていると聞いて、普段和歌は不得意だと言っているにもかかわらず、「ここにのみ めづらしと見る 雪の山 ところどころに 降りにけるかな」と詠んでいます。

その後、二十日ころに雨が降りましたが、少し低くなっただけで残っています。清少納言は「白山の観音様、どうかこの雪山を消さないで」と祈るのも、我ながら正気とは思えないと。

そうこうしているうち、大晦日のころには少し小さくなったものの、雪山は年を越します。

一月一日の夜にはまた雪が降り、清少納言は喜びますが、中宮が「これは、ダメ。元の分だけで」と言って、このときの分はよけさせます。ですが、雪山はまだ残っていて、他の女房たちが「でも、七日までは無理でしょう」と言っているのに対して、清少納言は「どうせなら、十五日まで」と祈ります。

ところが、一月三日に中宮が内裏に入ることになります。清少納言も、他の女房も、中宮も「結果が見られなくて残念」という話にはなりました。そこで、清少納言は庭師に頼んで、雪山を見張らせることにします。中宮と一緒に内裏に入った後、清少納言は七日に自宅に戻ります。

十日頃には「あと五日は大丈夫そう」と言われて喜んでいた清少納言ですが、何と十四日夜にすごい雨が。気が気ではありません。使いをやると「まだ座布団サイズで残っています。明日、明後日までなら」と返事があったので、「明日、歌を詠んで、残った雪を持って中宮様のところに」と、もう待ち遠しい状態です。

ところがどっこい、翌朝早くに雪を取りに行かせると「雪はありません」と。「何ですと!? せっかく歌も準備したのに!」と落ち込む清少納言のところに、中宮から「雪は今日まであった?」とお言葉がありました。「他の人たちがせいぜい年内というのを、昨日の夕方まであったのは自賛したいところですが、今日までは欲張り過ぎました。きっと誰かが憎んで、夜のうちに棄てさせたのではないかと」と返事をします。

二十日に中宮のもとに参上して、まずその話。箱に残った雪で小さな山を作り、そこに書いた和歌を刺して見せようと思ってたのに、と嘆くと中宮が大笑いします。もちろん、周りにいる他の女房たちも笑っています。

「こんなに思い入れていたのに悪いことをしたわ。棄てさせたのは、私。よく『誰かが棄てさせた』って当てたわね。庭師には『黙っていなさい。話したら家を壊す』って言って。結構残っていたってことだから、今日あたりまで残っていたかも。帝も『周囲に動じず、自分の意見を通した』ってこと、殿上人たちにおっしゃったのよ。さ、あなたの勝ちなのだから、和歌を披露して」と、まさかの中宮の言葉。大好きな中宮からの仕打ちにしょげて「できません…」と落ち込む清少納言。帝もいらして「少納言は中宮のお気に入りだと思っていたけど、あやしいなぁ」と追い討ちをかけます。「『後から降った分はダメ』とおっしゃられたし」と清少納言がこぼすと、帝は「少納言に勝たせたくなかったんだろうね」とおっしゃってお笑いになります。

 

『枕草子』ではここで終わりです。清少納言にしては珍しく「なぜ素晴らしいのか、どう素晴らしいのか」を書いていません(長かったから?)。でも、わざわざ書かなかったとすれば、これは読み手の解釈に委ねるってことでしょうね。『枕草子』という作品をよく知らなければ「意地悪な中宮」「可哀想な私」がテーマと思われるでしょうが、分かる人は分かっています、『枕草子』が清少納言から中宮への愛に溢れた作品であると。そうすると、このエピソードを載せて、しかもここで終わっているのは「分かる人には分かるわよね?」という清少納言からの「挑戦状」です。

昨年亡くなられましたが、作家で独自に古文、特に女流文学の現代語訳をして『新・源氏物語』などを書かれた田辺聖子さんは『枕草子』をベースに他の文献からの史実を織り交ぜながら『むかし・あけぼの~小説枕草子』を書いています。その中で、この話の続きをこんな解釈で書いていますので、一部抜粋します。

 

「少納言の返事に『あまりあざといと、誰かがそねんだのでしょうか』とあったけど、さすがにそれもぴったり的中よ。あのねえ、少納言。そこまで察して肝心のところがわからない人ね」

 

不審に思う清少納言に中宮は続けます。

 

「あまり勝ちすぎてしまってはものごと美しくありません。黒白をあまりきっぱりつけるのは、こころ稚いこと…というより、興が削がれて白けるではありませんか。すべて何でもたのしくおかしいほどにとどめておかなくては…。あなたは子供みたいに一途な人だから抛っておくと極まりまでいくのね。あなたが憎まれても可哀そうだと思って…」

 

それに、少納言は

 

「うれしいお心遣いを賜りましてありがとう存じます。そんなにも深くお考え下さいまして、至らぬわたくしをお庇い立て頂きましたこと、ほんとうに嬉しゅうございます。とは申すものの、やっぱり怨めしゅう存じますわ」

 

と応えます。新しく降った雪をよけさせたことについても、中宮は帝と清少納言に

 

「依怙贔屓などいたしませんよ。公平にいたしましただけで…。でもどっちかと申しますれば、わたくしも、少納言の得意顔を見るのは、ちょっと辟易、というところでございましたの」

 

と言います。その後に清少納言のモノローグとして、こう続きます。

 

「それとともに私は中宮のお気持も知った。あんまり一方が得意になりすぎると怨みを買い、興がそがれてしまうこと。(中略)中宮は美意識からそういう卓見を得られ」

 

これは、私が新刊で買って読んだときに「ああ、そうか」となんとなく納得して、以来この「美学」を「グレーの美学」として、心に留めていました。

ですが、この話、私としては「中宮が清少納言に勝たせたくなかった」という帝の言葉にひっかかりました。

周りの反対を押し切って自分の主張を貫いたという点は帝も評価していた訳ですが、ただ、この「勝利」、いつもの清少納言の評価されるところとは違います。いつもならその知識からくる当意即妙な清少納言の行動や言動についての評価ですが、今回の「勝利」は確かに観察力はあったにしろ、本人の才能というよりは天候次第の「運」で勝ったという部分が大きいです。だから、勝ったからと言ってそんなに大仰に誉められることではありません。これで中宮が勝ったことを誉めたら、やはり快く思わない人も出てくるでしょう。

そう考えて読み返すと、史実と合わせて「はっ!」となる部分が出てきました。雪山を作った場所は職の御曹司です。職の御曹司は、天皇の住まいの内裏の外にある中宮職の役所です。少し長くなりますが、なぜこの「職の御曹司」がポイントになるか、史実を解説します。

 

中宮は元々は内裏の登華殿(梅壺という説もあります)に局を賜っていました。中宮の父・藤原道隆が糖尿病で亡くなった後、父の弟である道長が内覧(準関白って感じの役職ですね。道隆の病気が悪化してから亡くなるまでの間、中宮の兄がやっていました)になり、政争に破れた中宮の兄弟は左遷させられてしまいます。妊娠中の中宮が実家の二条邸にいるときに、逃げ込んだ兄弟たちを検非違使(今でいう警察ですね)が踏み込んで捕らえ、それを見て半狂乱になる母の姿に、中宮も髪を切り落飾(出家)してしまいます。その年の夏に二条邸焼失、秋に母死去と不幸が続く中、中宮は年末に第一子の脩子内親王を出産します。

翌々年、兄弟たちが罪を赦され帰京、一条天皇が内親王との対面を希望したため、中宮は再び天皇のいる内裏に行きますが、出家した后であるため内裏の中ではなく外の役所である職の御曹司に住むことになります。このことを、当時の人たち(それと史実を確認している人たち)は知っていますから、それを分かっている前提で書いているのです。

父関白道隆が存命中は遠慮していた他の有力者が次々と娘を女御(側室扱いですね)として一条天皇に出し、他に雪山を作っていた所に上がった弘徽殿には太政大臣藤原公季の娘が局を賜っていました(他に左大臣藤原顕光の娘や前からの関白道兼の娘も、女御になっています)。

中宮はもちろん、女御たちも皇子を出産し、その皇子が天皇になれば、実家一族は一発逆転、政権の中心になるのです。大臣家の娘でそれなりの後ろ楯のある女御たちと違い、中宮の実家はすでに昔日の勢いはなく、あとは中宮本人の力だけです。いわば「チーム中宮」はとても不利な状況です。没落していく中で、女房の中には他の陣営に鞍替えをすることを考える者もいたと思われます。

 

こんなときにつまらないことで仲違いし、チームの結束が乱れてどうする?

こんなときこそ一丸になって、帝がいらしても楽しい「チーム中宮」でなくてどうするの?

 

そう、この件は中宮の「マネジメント」だと私は思います。誉めるべきところを誉めるのは当然ですが、誉めなくてもいいところまで誉めていては他のメンバーの不満が高まります。以前「それなら、和歌は詠まなくていいわ」という言葉をいただいていながら(この話は、以前『夏井いつき・句会ライブ』のときに簡単に書いてありましたね)、こういうときに和歌を準備するというのもよろしくない。「だから、和歌を」という中宮の言葉には「不得意のはずの和歌まで準備するのは調子に乗り過ぎ。自分にも不得意なことがあるのだから、周りにも傲らずにいなさい」という中宮の清少納言へのメッセージが込められているように感じます。そして、腹心の部下である清少納言だからこそ「分かるわよね? 今回はあなたがちょっと落とされて、それで他のメンバーが気分よくなるんだから、それでいいことにしておいて」っていうこともあるかと。

やっぱり、「中宮様、すごいっ!!」じゃないですか!?

 

この私の解釈、どうでしょうか? 千年余りの時を超えての私の解釈、中宮や清少納言に「そうそう、良い読みをしたわね」なのか、「う~ん、ちょっと違うんだけど、まあいいんじゃない」なのか、「全然違うけれど、面白い」なのか、それとも「何をバカなことを」と酷評が来るのか、訊いてみたいところではあります。

 

今日2月8日は旧暦一月十五日、清少納言の「雪はありません」「何ですと!?」の日に当たります(Facebookを見ていた方はご存知だと思いますが、それで、今回の原稿、急いでいたのです。そして、夢中で書いて連日の寝不足です…)。

 

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