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石川さゆり『津軽海峡・冬景色』~「この言葉でないとダメ」という言葉選びとそれに合致するメロディ、そして相応しい歌い手とが作る大傑作

硬い話が長く続くので、間はまた歌の話を。先日予告した「絶望」三部作ではなく、前回に続き紅白歌合戦からです。

 

もはや定番となった紅白歌合戦の石川さゆりさんの『津軽海峡・冬景色』は、もちろん名曲だからこそ、何回も紅白歌合戦で歌われるのですが、この曲の「名曲」たるゆえんを考えると、やはり「言葉」から、そして、その言葉を見事に活かした曲だからと思われるのです。

 

この曲のオリジナル盤の発売は1977年1月1日、元々は前年に出したらアルバム中の1曲で、そこからのシングルカット、石川さゆりさんの15枚目のシングルで、当時石川さゆりさんは、まだ18歳です。なお、このころ、すでに航空機で羽田~千歳の運航はあり、1974年以降青函連絡船の利用者数は減少しています。  


 まず、冒頭「上野発の夜行列車」。もちろん、当時は上野始発だったのでそうなりますが、これが「東京からの」だったり、まして「品川発の」だとイメージが変わってしまいます。かろうじて「新宿発の」でしょうか? 単に「東京」では都会のキラキラ感だけになるのですが、これが「上野」だからこそ、最新の近代的な都会ではなく、都会だけど少し古い、地方出身者にも住みやすい街のイメージになります。そして、そこから長い夜行列車の時間と距離を省略して、ポンと青森に飛ぶ。

「おりた時から 青森駅は雪の中」も、「おりると」でも「おりたら」でもなく「おりた時から」で時間を強調して、「雪景色」ではなく「雪の中」で、そんなに美しい風情のあるものではなく、単に行く手を阻むような雪が無情に降っている感じになります。続いて「誰も」。もちろんここは省略があり「誰も彼も」になりますが、これが「みんな」になるとどこか連帯感のある仲間みたいになってしまいます。「誰も(彼も)」と関係ない他人であることで、より孤独感が強まる訳です。

さて、「海鳴りだけをきいている」の省略された主語はどうでしょう? ここは「(他の人は分からないけれど)私は」でしょうね。そうすると、次の「私もひとり」が活きてきます。ここが「私はひとり」だと、連絡船に乗る人たちはグループとかカップルとかが目立つ中で「私はひとり」になりそうですが、先ほどの「誰も」と同じ、この連絡船に乗り込んでいる人たちも、ほとんどが1人ずつという光景になるのです。

「泣いていました」も、「泣きました」なら自分で意識して泣く訳ですが、前の「きいている」が「きいていた」でなく現在形だったからこそ、「泣いていました」とあると、「(自分でも知らない間に気がついたら)泣いていました」という補い方ができます。この1コーラス目は、そうした「置き換え」のできない言葉をつないで緻密に構成されているのです。

 

さて、そうは言ってもここまでは主人公についてはほとんど説明がなく、東京から来て青函連絡船に乗って泣いていたことしか分かりません。一体どんな背景をもった人なのか? そういう説明はたいてい2コーラス目のAメロにきますから、ここを考えてみます。

「ごらん、あれが龍飛岬、北のはずれ」と見知らぬ人が声をかけてきます。けれど、この吹雪くような雪の中、岬は見えず、はるかにかすみしか見えません。

ここで声をかけてきた人はどんな人でしょう? 昔はなんとなく世話好きなおばちゃんをイメージしていたのですが、どうもそうではないらしいと気がついたのは、ごく最近です。夜行に乗ってきて着いたのは朝でしょうから、おばちゃんなら、泣いている主人公に対して食べ物でも出して「これでも食べな」とかなりそうだし、もっと直接的に「どうしたのかい?」とか言いそうです。食べ物を出すというのは、女性は準備がいいし、女性はたくさんは食べないから余分なものがあることが多いからです。そこを「龍飛岬」を指してきたところを考えるとこれは男性、しかも、見えない龍飛岬の方向を指せるのですから、何回もこの船に乗ったことがある男性だと考えられます。何回もですから、出稼ぎから帰る「おっさん」でしょうか。出稼ぎしているくらいですから、経済的にそんなに余裕もなく、食べ物も最低限しか持っていませんから、見えるはずの龍飛岬を話題にした訳です。

これを考えると、逆にこの主人公の様子が分かります。龍飛岬を教えるということは、この主人公が連絡船は初めてのように見える、つまり、周りの客と違って、明らかに地元の人間でない、都会の雰囲気であることが分かってきます。垢抜けたお洒落な服装なのでしょう。そして、これは男のさがというべきか、いい女がいたら声をかけたくなる、その都会からきたお洒落な女が泣いている姿を見たら、もちろん心配というのもありますが、若干の下心をもって声をかけてしまいますよね。逆に、垢抜けない若い娘ならやはりおばちゃんも声をかけますが、それなりの年齢の身なりのいい女性には声をかけてこない感じがします。それが、これだけのフレーズから浮かんでくる仕掛けです。すっかり垢抜けて身なりがいいことから、主人公はそれなりに長い間、東京で生活をしていたことも分かりました。けれど、飛行機に乗らず、夜行列車から青函連絡船を選んだ理由は何かありそうですね。

 

さあ、次です。「さよならあなた 私は帰ります」で、男と別れようとして出身地の北海道へ行こうとしているのがはっきりしました。ここで思い出して欲しいのは、Aメロ最後「かすみ見えるだけ」です。さっきまで泣いていた彼女は、もう泣いていません。泣いていたなら「かすみにじむだけ」になります。ここで「さよならあなた」と宣言します。

これは深読みしすぎかもしれませんが、先ほど「おっさん」に声をかけられて、彼女は我に還ったのではないでしょうか。そんなに安い女に見えてしまっていたのかと。私はそんなに安い弱い女じゃない!自分を取り戻して、ここで改めて彼女は宣言したのです。「私は帰ります」は、ひっくり返せば「あなたはどうでもいい」です。男は浮気を繰り返す夫かもしれないし、逆に彼女の方が愛人だったのかもしれない、子供はいませんから、子供を産まない彼女の嫁姑関係がこじれて婚家を飛び出したのかもしれない、そこは分かりません。分かりませんが、別れを決めたのは彼女です。風の音は「泣け」と胸をゆすりますが、もう彼女は泣かないでしょう。船が本州を離れ、彼女も「あなた」から離れたのです。

東京では、少なくても垢抜けたファッションで過ごしていて、金銭的にある程度余裕のある生活をしていたのでしょうが、北海道に帰って彼女が生きていくには、そんなに贅沢はできないかもしれない。その区切りのためにも、あるいは少しでも手もとのお金を残すためにも、飛行機を選ばなかった理由になりそうです。もちろん、「気持ち」の整理のためにも、時間をかけて離れていったというのも理由になりそうですが。

 

さて、石川さゆりさんは熊本市出身ですから、帰るなら九州にしたいところですが、温かいところに帰るのでは、なんとなく悲しみも弛んでしまいそうです。西日本の場合は、都会に出るというのは、だいたい大阪が多いですから、大阪から九州に帰るのだと、そんなに切実な思い詰めた雰囲気が少なくなくなりそうです。上野からだと、やはり北日本ですね。雪があって寒さが募ると、余計に悲しみと「生きることのきびしさ」が増幅されるイメージです。

では、なぜ津軽海峡なのでしょうか。津軽止まりでも、十分雪はあるし、寒いです。美空ひばりさんの『津軽のふるさと』『リンゴ追分』、細川たかしさんの『望郷じょんがら』、吉幾三さんの『津軽恋唄』、新沼謙治さんの『津軽恋女』と、津軽は遠いふるさとのイメージのある地名です。けれど、これは決別宣言をしているからこそ、海をへだてて別の地に向かう、あなたからキッパリと離れるということを象徴しての「海峡」でなければならないのです。「関門海峡」でもなく「鳴門海峡」でもなく、「津軽海峡」ででしかないのです。

 

2コーラスが終わって、最後は全く同じ「さよならあなた」からの繰り返しで終わり、それ以上は加える必要がないということでしょう。繰り返したのですからこれがテーマです。「男との別れを決めて毅然とする(いい)女」です。だから、この曲はカッコいいのです。

 

石川さゆりの歌唱も、最初にレコーディングしたときから、ずいぶん変わってきています。特にサビの「ああ」(歌では「あああ、あ~~~~」と聞こえる)は、最初に軽めに歌っていたのと、40代に入った後の唸るような悶えるような歌い方で全く違います(最近はやり過ぎ感があったのか、一時よりは軽めにはなりましたが)。これは、単に男と別れた若い女が悲しいため息をついているのではなく、長い月日を過ごした男と別れようとするそれなりの経験がある大人の女が、それまでの月日の悲喜交々と、自立へ向かって「雄叫び(女性だけど)」のようなものとをすべて含む万感の「あああ、あ~~~~」なのですから。もちろん、フルコーラスで歌うときはこれが3回あるのですが、1回目より2回目、2回目より3回目の方が、より迫力があるように歌っています。というか、ここが聴かせどころ、これがないとこの歌を聴いた気にならないですよね。 

そうすると、イントロもなぜ「ジャジャジャジャ~ン」(オリジナル盤はコーラスの「ウウウウ~!」ですが)と強く始まるかも納得です。この曲は先に詞があって、後から曲が作られたのですが、作詞の阿久悠さんの意図を踏まえた作曲編曲の三木たかしさんは、「上野発の夜行列車」だけなら、その後の「チャラララ~、チャラララ~ララ」からのイントロで上野からの列車が走る雰囲気だけ十分なのに、あえて力強く入ることで、曲のテーマをはっきりさせ悲しいだけの歌ではないことを表現したのだと思われます。ただ元々、津軽海峡の荒波のイメージがあったので、この冒頭のメロディから作り出したと語っています。そのくらいのこだわりですから、もちろん、間奏とアウトロも、流れに合わせて変わってきます。1回目のムード歌謡的な「タラタタラタタン、タラララ~ラ」と流れるような間奏、「タタタタン、タタタタン、タタタター」とこれもムード歌謡の要素がありながらも力強く未来に歩き出すよつなアウトロ。特にアウトロは、物語がこれで終わるのではなく、主人公の人生のこれからも予感させる、まさに「つづく」で終わるからこそ、希望のあるエンディングのイメージになります。アウトロが2回目の間奏と同じように、「チャラララ~、チャラララララ~ララ」でイントロのイントロと同じメロディを使って「・、タン、タン、タン」で終わると物語が終わってしまう感じになりそうです。また、イントロと同じメロディを使っている2回目の間奏も、歌に入る最後の部分で、イントロは「・、タン、タン、タン」と落としているのに対し、「タタタ、タタタ、タタタ、タタタ」と畳み掛けるように上がっていって繰り返す「宣言」へ盛り上げていきます。

 

メロディを分析すると、ちょっと面白いことが分かります。これは4拍子ではあるのですが、「タタタ・タタタ・タタタ・タタタ」という三連バラード、音楽用語ではロッカバラード(Rock a Ballad)です。JPOP系の曲だと、華原朋美さんの『LOVE IS ALL MUSIC』(1997年)、竹内まりやさんが河合奈保子さんに提供した『けんかをやめて』(1982年)が分かりやすいですね。『LOVE IS ALL MUSIC』だと「よあけ、ごーろ、じてん、しゃーを、ひがし、ぐちま、で・・、ほろよ、いーの、すこし、きぶん、とりに、いって、くるか、らーー」で分かりやすいし、『けんかをやめて』は「けんか、をやめ、てーー、・・・、ふたり、をとめ、てーー、・わた、しーの、・ため、にーー」で分かると思います。ただ、『けんかをやめて』は例に出した部分でも、『LO VE IS ALL MUSIC』では続く「こーえ、んーで、ひとや、すーみ、あなた、のイニ、シャル・、すなば、にかい、てまた、けして、じかん、をねじ、まわし、て・・」の部分になると、三連符の三音の頭が単語の途中や助詞になって違和感があるので、余計に三連符であることが分かりやすくなってしまっています。逆にちょっと分かりにくいけれど、これも三連バラードなのが、都はるみさんの『北の宿から』(1975年)、中島みゆきさんの『時代』(1975年)です。『北の宿から』のサビ「・おん、なーー、ーーー、ーーー、ごころ、のーー、ーーー、ーーー、・みれ、んーー、ーーー、ーーー、でーしょ、おーー、ーーー、ーーー、あーな、たーー、…」となります。『時代』だと「・まわ、るーー、まーわ、るーー、よじだ、いーー、はまわ、るーー、・・よ、ろーこ、びーか、なしみ、くりか、えーー、ーーー、し・・、きょーお、はーー、わーか、れーー、た・こ、いーー、びとた、ちーー、も・・、…」です。これだと、伸ばしているところが多いので、区切ってみて「あ、そうだったんだ」という感じになります。

ロッカバラードは、普通のバラードよりも「ロック」ですから、いくぶん激しめにテンポのいい感じに聞こえるのが特徴です。『時代』はバラードでありながら、どこか元気になる感じがするというのは、このメロディのベースがあるからです。

 

では、『津軽海峡・冬景色』はどうでしょう?「うえの、はつの、やこう、れっしゃ、おりた、とき~か、ら・、・・・、あーお、もーり、・・え、きーは、ゆーき、・のな、か・・、・・・、きたへ、かえる、ひとの、むれは、だれも、むく~ち、で・・、・・・、うーみ、なーり、・・だ、けーを、きーい、・てい、る・・」ですね。音が連続している部分は言葉のアクセントと三連の最初の音が一致しています。続く部分は伸ばす音と休むところで、『時代』と同じようにあまり三連を感じさせない作りです。

実際、日本語の歌詞と三連譜は相性がいいのです。まず、日常的に使う名詞は2音のものが多いのです。たとえば、体の部位についての単語は、目と手を除くと、耳、鼻、口、顔、首、胸、腕、脚…といった感じ。3音は頭と心(体の部位ではないですが)くらいでしょうか。この2音に助詞の1音がついて3音というパターン。動詞も基本動詞は2音のものも多いですが、2音のものは、「て」や「た」がつくと3音に、3音のものも多くて、「言う」は2音ですが「話す」「語る」になると3音です。漢字2文字のいわゆる「熟語」も結構3音のものが多いです。なので、三連譜にすべて音が割り当てられている冒頭も、すべて頭に言葉の頭になるかそれに準じるものが来ていて、言葉のアクセントと音のアクセントが一致するので、『けんかをやめて』のような違和感がありません。サビの「こごえ、そうな、かもめ、みつめ、ないて、いまし、た・・」もそうですね。

さらに、演歌系と相性がいい理由もあります。三連譜のすべてに音を割当てず、頭の1音を休符にすると、自然に「溜め」ができることになります。『北の宿から』のサビを「おーん、なーー、ーーー、ーーー、」にすると、ちょっと大袈裟というか、間の抜けた感じになるのを「・おん、なーー、ーーー、ーーー、」の「・」で溜められるので、より演歌っぽくなるということです。

『津軽海峡・冬景色』も最初のレコーディングでは「あーお、もーり、・・え、きーは、ゆーき、のーな、か・・」だったのですが、後の歌唱では「・ゆき、の・な、か・・」という感じで歌っています。のっぺりとならずに、アクセントのところに音がないのでちょっと可愛らしく聴こえるのがポイントです。

聴かせどころの「あああ、あ~~~~」も、これが「あーー、あーー」や「ああ、あ~~~」ではなく、「あああ、あ~~~」で2つ目の「あ」の音を下げることで、より多くの感情を込めた「ああ」になっています。これも三連譜を活かしたからこそです。

もう一度、歌詞に戻って「冬景色」。タイトルの『津軽海峡・冬景色』です。中黒「・」をつけています。これで、世界が広がるのです。つまり、これはこの主人公の物語だけど、それぞれの物語を抱えたたくさんの「1人」が、そこにいる。その全体を含めての「景色」なのです。『津軽海峡の女』でもなく『津軽海峡・女一人』でもないのは、夜行列車のついた青森駅の風景、そこにいる人々を俯瞰していて、たまたまこの主人公に焦点があって、その主人公の物語を伝え、そして最後にまた人々全体を見て、それぞれにまた別の物語があるのだという見えない「広がり」を伝えるために「冬景色」でなければならないのです。もちろん、『涙の連絡船』というタイトルは、1965年に都はるみさんのシングルで発売された曲があるし、内容から考えても違いますね。

この「景色」という言葉、歌詞の中においても、1コーラス目では主人公にとってただの景色の中の一部であった関係のない他人としての人々が、2コーラス目には冷静になった主人公が「この人々もそれぞれの事情を持って、北海道に(帰って)行くのだ」という、客観的でありながらも親近感のある視線で人々を見ているという感じもします。(ただ、作詞の阿久悠さんは、なぜ「・」を入れたのか理由を覚えておらず、後に「『津軽海峡冬景色』で一つの象徴語になったので『・』」は不要と考えるようになったという話があります。)

 

歌唱力という点はおいても、この曲はビジュアル的にも「石川さゆり」、それも発売当初というより、後々の「石川さゆり」だからこそというのもあります。

ちょっと失礼な言い方になりますが、この曲、超のつくようなすごい美女が主人公では成り立ちません。すごいビジュアルでは、こんな美女を男が手放さないし、手放したとしたらその理由の方に聴き手の関心が行ってしまいそうです。そんな美女が泣いていたとしても(そんな美女は他人の視線があるところでは無意識でも絶対泣かなそうだし)、そんな訳ありのしかもすごい美女なら「おっさん」は軽く声をかけたりはできません。かと言って、見るからに気の強そうな女性だったら、やっぱりそんなふうに声はかけないと思われます。近寄り難い絶世の美女ではなくちょっと「いい女」、しかも、見た目がどこか可愛らしくて(先ほど上げた「雪の中」の歌い方の変化も「可愛らしさ」を強調していますね)ほんの少しだけ弱さというか隙を感じさせる女性だから、この物語が成り立つのです。そのあたりも石川さゆりさんにしっくりとくるのです。

もちろん、この曲、楽曲自体が素晴らしいので、オリジナル盤もいいのですが、実はオリジナル盤、大ヒットといいながら、当時の実績としてはそんなに「大」ヒットではありません。レコード売上のオリコンチャートでは、週間で6位が最高、1977年の年間で16位、翌1978年の年間で64位、ロングヒットではありましたが、爆発的なというほどではありません。18歳の女の子が精一杯背伸びして大人の歌を歌っている感じがあります。

それが歳を重ね、いつの間にか、離婚経験あり、いつまでも可愛らしさがありながら毅然とした女という石川さゆりさんのイメージ通り、たおやかに見えて強い女の曲になっていきます。

歌い方も変わっていきます。レコード会社の移籍もあり、ベスト盤を何回か出していますが、そこで何回か歌い直しています。だから、この曲は、石川さゆりさんにとっても、そしてたぶん視聴者にとっても、古いけど新しい、進化している曲です。それが年月を経るにしたがって、ますますこの曲を名曲にしているようにさえ思えるのです。

 

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#石川さゆり