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宇多田ヒカル『花束を君に』~天才からの挑戦状


NHKの朝ドラ『ととねえちゃん』主題歌。「人間活動」のための休止からの復活第一作目である。『ととねえちゃん』をほとんど見ていなかったので、その主題歌である『花束を君に』も、リリース当初にさらっと聞き流しただけで、「声の使い方が少し変わったけど、相変わらずこの人、うまいなぁ…」くらいにしか思っていなかったんですよ、この曲。

一聴、一緒に暮らしていた同棲相手との何らかの理由による別れ(彼女が海外に留学とか赴任とか、あるいは実家の事情で地方に帰るとか)に思える。一人称「僕」、二人称「君」からも、恋人関係を思わせるから。が、後に、SONGSで彼女が語った言葉で、この曲が「母」への想いであることを知って、そして、「やられた~っ!」と。

 

見事だ。見事である。NHKの朝ドラにふさわしく、より多くの人に受け止められるように普遍性を持たせる言葉を使い、そこに自らの想いをしっかりと包んでいる。そして、「分かる人には分かる」とばかりに投げたのだ。この人が軽く書き流す訳があるはずもないのに、軽く聞き流した自分の不明を恥じ入るばかりである。

よく読めば、キーワードはあるのだ。冒頭の「薄化粧」を逃したとしても、大ラスの「君を讃えるには」で、気がつくべきであった。そうでなければ、「神様しか」との連動が活きない。「母」と「私」を、「君」と「僕」でカムフラージュされているのに(さらに言えば、「今は伝わらなくても」が「いつかは伝わる」ではなく「もう未来永劫伝わらない」であり、「抱きしめてよ たった一度 さよならの前に」が、対「人」としての感情からでなく、すでに叶わぬ「願い」であったことを気づかせないようにしていることに)、まんまとやられたのである。そして、特に低音(冒頭の「君が」の「が」、それに続く「薄化粧」)の、力まずにさらっと歌いながら、今までにない温かさと豊かさのある声、そして、高音部の柔らかなミックスボイス、必要以上の感情を抑えた歌唱が、その普遍性をさらに拡げている。これを「母になると、やっぱり違うなぁ」くらいしかとらえられなかったことが、激しく悔やまれる。

 

とはいえ、言い訳になるけど、この歌詞は、研究者だった彼女がその成果を認められて栄転して離れるって解釈でもかなりいけると思うのだけど、なぁ。研究者だから、普段は化粧気がない彼女、大出世の栄転で、あるいは海外の大学の研究室か、それで旅立つときに、派手ではなくちょっと化粧をして…。そうすると、その彼女を応援するのに、身を引くことを決めた「僕」の気持ちとして、ちょっと揺れ動く感じとかも合うかと。2コーラス目「毎日の人知れぬ苦労や」も、研究者としての試行錯誤と苦戦の積み重ねを連想されるし、「君を讃える」にもつなげられる。ただ、やっぱり「涙色の花束」というと、身を引く決心をしている「僕」としては、ちょっと自分の気持ちを押し当て過ぎてる感じは否めないか。

 

いわゆるヒットメーカーと言われる作詞家は、より多くのリスナーの共鳴を導くべく、歌の詞(ことば)に普遍性を持たせる。本気になっているときの秋元康や、やはり本気の小室哲哉が紡ぎ出す詞は、具体性を抑え、暗喩と普遍性のある詞で世界を作る。宇多田ヒカルも間違いなく、その一人である。

と同時に、彼ら天才たちは、「分かんない人はそれでいいけど、分かる人には分かる」という隠された本音、仕掛けをも忘れない。それが、創作者としての受け手との勝負であり、それをどこかで楽しむのだろう。

 

「悲しみ」を歌うことのできる歌い手は多いが、宇多田ヒカルは「悲しみとそれを超える力」を歌うことのできる数少ない歌い手である。そういう点では、中島みゆきも共通する(遊び心のある言葉を使いこなせるという点も含めて)のだけれど、中島みゆきは時間をかけて一代でそこに到達してきたのに対し、宇多田ヒカルは、母・藤圭子から二代に渡ってそこに到達してきた。

そして、中島みゆきもそうであるが、ボーカリストとしても向上することをやめない。

 

ということで、この曲に関しては、私の解釈なんてどうでもよくて、ただ多くの人に改めてじっくりと聴いていただきたいと思うばかりである。ただ、「どんな言葉並べても 真実にはならないから」と歌いながら、「毎日の人知れぬ苦労や淋しみもなく ただ 楽しいことばかりだったら 愛なんて 知らずに済んだのに な」と、そこにこぼれ滲み出る彼女の人生への想いだけは、受け止めていたいと思うのである。

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