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華原朋美『たのしく たのしく やさしくね』~省略された「主語」


1997年9月18日リリース。もう22年も前の曲なのかぁ。

この頃から華原朋美は壊れ始める。小室哲哉との共作の、矛盾するような言葉さえをも繋ぎ合わせた歌詞、そしてやはり繋ぎ合わせただけの曲の構成、ボーカルも華原朋美の癖の「悪い部分」が目立つようになっている、名作ではなく、ある意味「迷作」である。

 

先に曲の構成を見ると、1コーラス目がA-A-B-サビ(「たのしく たのしく やさしくね」だけでサビとしていいのかは疑問だが)、2コーラス目がA-B-B´-サビ-サビ-サビ´で終わり。まあ、B+サビを「サビ」と取ることもできるけど、そうすると、さらにつまらない構成になる。

さらに難解なのが歌詞。「たのしくて」「泣く」という、普通に考えると相反する言葉の連続、「走らなきゃ」「ここまでは」も、「ここ」が普通に意味する自身の存在地点であるならば、自分に「ここまで」「走らなきゃ」というのは矛盾である。これが「そこ」であるなら、「たのしくて 泣く」場所までとなるから、まだ理解できなくもないのだが。

それでも、この曲を取り上げたのは、この曲にある意味での真実が見えるからだ。冒頭の「新聞やテレビさえ 最近は何も見ない」は、目を覆い耳を塞ぎたくなるようなニュース、そしてそれを報道する側の姿勢について、そんな思いになる昨今の情勢を思わせられる。「私には全て関係はない 出来事はすぐ一瞬で色褪せる」もそうだ。

 

「何も見えずに ただ立ち止まっている」はずのこの主人公、でもこれは「私」なのだろうか?ここまで、この歌詞は華原朋美の「私について」の解釈をしてきた。華原朋美と言えば、代表作の『I'm proud』もそうだし、出世作『I BELIEVE』も、『Hate tell a lie』も「私」を歌っているので、ついこの曲も「私」としてしまうのだが、デビュー曲『keep yourself alive』、『save your dream』、OMUROK RECORDSからの最後のシングル『YOU DON'T GIVE UP』と、いわば呼びかける歌も多い。

そこで、「主語」を補いながら考えると、この歌詞に納得できるのである。つまり、これは「立ち止まっている」人への呼びかけであり、それで歌詞の展開の整合性が取れる。だから、1コーラスの「いつまでも」以下の「でしょ?」であり、「走らなきゃいけないって思う季節もあるんだって理解った」も、自分の経験から「理解った!」であると同時に「理解った?」と相手に確認しているとも取れる。

そして、この曲で人称代名詞が出ているのは「私には全て関係はない」だけで、これは、ある地点(ある意味の「悟り」とも言える)に到達した彼女にとって、世間の動きは「関係はない」と言っているだけである。小室プロデュースでシンデレラストーリーを実現し「たのしくて泣くまで」に到達した彼女ならではの境地とも取れる(皮肉なことに、この曲が現時点での彼女のオリコン週間チャート1位の最後の曲であるのだが)。

 

2013年のセルフカバーアルバム『DREAM -Self Cover Best』で、ピアノバラードとして歌い直した『たのしく たのしく やさしくね』は、彼女のこのアルバムへの「歌詞の意味を意識し、一行一行正しく感情を伝えること」というコメント通り、全く違った、まさに「語りかける」ボーカルで、ようやく完成の域に到達した。そう、このカバーを聴いて、この曲の本当の姿が分かった。小室哲哉の「壊しながら、自分の楽曲のクオリティまで落とすのはプライドが許さない」という天才のプライドがそこには存在していた。そして、この天才の破壊行為は、セカンド・アルバムからのシングルカット2曲という「やる気のなさ」を感じる展開の後に、いよいよ本当の「崩壊」のサード・アルバムへとつながっていく。

 

最後に、サビ「たのしく たのしく やさしくね」であるが、ここにこそ、小室哲哉の言いたいことがあるのではないか? 人は、自分が頑張り過ぎると、頑張っているように見えない、周囲の人間に対して当たり散らすようになることが多い。そのことに対する戒めとしての「たのしく たのしく やさしくね」とすれば、全力で走っている当時の小室哲哉自身への言葉とも取れなくはない。当初、華原朋美は、小室を含めたスタッフの仕事を見て「せめて、私だけでも楽しく優しくしてあげたい」という気持ちと語ったが、後に「(小室との破局の予感に)何もかもが悲しかった。だから、自分に「たのしく たのしく」と言い聞かせながら歌っていた」と言っている。わずか3文節のサビに、これほどの思いがあるこの曲、やはり、単なる「迷作」ではなかった。

 

予定ではまもなく母になる華原朋美、小室哲哉に「愛を歌うことができる人」と称された彼女が、母になって、どんなに「愛」を聴かせてくれるのか、それを楽しみにしている。