今日15日は葵祭(正式には賀茂祭)が行われています。本来は、陰暦四月中の酉の日に行われていたもので、今年は5月23日に当たります。前に臨時の祭には触れていますね。平安時代には「祭」と言えば、この賀茂例祭を指していました。
この祭は『源氏物語』でも、重要な場面で登場します。光源氏がこの祭で、天皇の使者(勅使)として参列した姿を、正妻で妊娠中の葵の上と恋人(愛人)である前の東宮(故人)妃の六条御息所が見に行き、そこで場所を争う車(牛車)争いが起こります。
そこで、葵の上の従者が六条御息所の車を壊す騒ぎに。しかも、六条御息所の前を素通りした源氏は、葵の上の前は威儀を正し従者も敬意を表しながら通って行ったのです。恥ずかしい思いをしながらも、源氏の晴れの姿を見られなかったら心残りだったろうと思う御息所の女心、けれど、あからさまな嫉妬心を見せることのできない六条御息所の想いは、理性を超えていきます。
元々、葵の上との夫婦仲がしっくりいっていなかった源氏は、他の女性とも関係をもってはいたのですが、ようやく妊娠した葵の上に愛情を深めていく中、その姿を見せられた御息所の愛執はついに生霊となってしまうのです。
苦しむ葵の上に憑いた物の怪を調伏させる祈祷が行われ、葵の上に乗り移っている御息所の生霊が和歌を詠み、その和歌と声で源氏は御息所の生霊と気づきます。葵の上は、ここまで和歌を源氏に交わしたことがない、一方、御息所は何度も源氏と和歌を交わしているという伏線が活きています。御息所本人はと言うと、美しい女性に乱暴する夢を見ています。そして、物の怪の調伏に使う芥子の香りが洗っても着替えても消えない…。そこで、初めて自分が生霊になっていることに気がつくのです。そして、それを源氏に気がつかれていることも。ついに葵の上は出産後に急死します。
これ、すごくありませんか。「妻とはうまくいってなくてね」という男の愛人が、その家庭の一面を見せられたときに、一気に火がついて嫉妬に狂う。なんか、今でもありがちな感じです。しかも、男の方は、愛人が重くなって引き気味なのもありがち。これをこの流れに落とし込むのは、すごい。これも泥々ドラマにできそうですね。しかも、心霊ものとしては、気がつくのが匂いというのも、なかなか。
さて、もはや源氏の愛を失ったと悟った御息所は、源氏との別れを決意し、娘(これが後の秋好中宮)とともに伊勢に行きます。その後、京に戻って出家して源氏と再会。病で先が長くない御息所は、娘の将来を源氏に託し(ここで、娘には手を出すなと釘を刺していますが)、世を去ります。
これで終わらないんですよ、これが。準正妻の紫の上があるにも関わらず、初恋で永遠の女性である藤壺の姪である女三宮を正妻に迎えた源氏のもとに、再び御息所の霊が現れます。紫の上を病で苦しめ、女三宮を出家させてしまいます。
前に朧月夜の尚侍とともに、生々しい「女」を感じさせる女性と書きましたが、尚侍の君が、結局后(正妻)を立てなかった朱雀帝の尚侍への「愛」を受けて、「愛」についてしっかりと結論を出して完結したのに対し、御息所は答えが未完成のまま死してなお苦しむのです。
と、まあ、男と女の「愛」のストーリーとしての面から考えるとこうなるのですが、実は、私、他に見えない伏線があるように考えています。それは、没落した一族の怨念です。
六条御息所は、前の東宮の妃ですが、この前の東宮がなぜ即位できなかったのか。表向きはすでに亡くなったという形ですが、源氏の兄の朱雀帝が東宮になった時期と秋好中宮の年齢を考えると、どうも亡くなったのは東宮ではなくなった後ではないかと考えています。つまり、何らかの政変があって、東宮から下ろされ、その後に秋好中宮が誕生して薨去ではないか。秋好中宮の後見を源氏に託したのも、御息所の一族も中央政権から追われていたのではないか。はっきりと書かれていないのですが、後に源氏の娘(明石中宮)を生む明石の君の一族も、その父(明石入道)が、娘が将来の后を生む、その子供は帝になるというお告げを受けて、官職を棄てて明石に隠棲していて、その明石の君は、源氏によれば「六条御息所に似ている」と。つまり、六条御息所、明石の君は同じ一族であり、政変を予感した明石入道は失脚させられる前に都を離れていて、一族が返り咲く日を待っていたのではないかと思うのです。そして、この明石入道は、やはり後ろ楯のなかった源氏の母桐壺更衣の従兄弟に当たります。源氏の父桐壺帝の時代の左大臣、右大臣は当然、その政変で勝っているいうことになりますから、そうすると、この「負けた一族」の怨念を受けることになります。
怨念なんて非現実的なものですが、平安時代には政変によって追われたものが祟るのは普通にある話で、有名なところでは菅原道真、天神さまですね。ちょっと解説すると、菅原道真は昌泰の変(901年)で失脚します。これは、簡単に言えば藤原時平が讒言して醍醐天皇が大宰府行きを命じたという事件です(裏には先帝の宇多法王と今上帝の醍醐天皇との対立があります)。その後、時平一族は次々と死去、帝の住まいの清涼殿に落雷して死者、さらにその3ヶ月後に醍醐天皇崩御、それらは道真の祟りとされていました。一方で、時平の弟の忠平は宇多法王側で道真と一緒に左遷されたので、忠平一族には祟りが及ばないとされ、時平一族が絶えていく中で復権し、この子孫が摂政関白として繋がっていきます。
祟りといえば、冷泉天皇(これは『源氏物語』中のではなく実際の歴史上)の狂疾の原因も怨霊の仕業と言われていました。冷泉天皇は村上天皇の第二皇子だったのですが、第一皇子の広平親王の母の父である藤原元方が、広平親王が東宮になれなかったことで悶死して、怨霊になって冷泉天皇を狂わせたと『大鏡』にあります。この怨霊はさらに冷泉天皇の子、花山天皇と三条天皇にも及び、花山天皇の乱心と三条天皇の眼疾も、この怨霊のせいであると言われていたのです。
祟られそうなときは、その「負けた」一族から親族に迎えて、祟りを回避するということもあったと思われます。藤原道長は、安和の変(969年)で失脚した源高明(道真と同じく大宰府に行かされるが、2年後に許されて帰京、政界に復帰はしていない。帰京は、道真と同じようにならないためにされたとも考えられる)の娘を妻に迎え、娘を東宮をやめさせた敦明親王の妃にしています。
そう考えると、朱雀帝の后にするはずだった葵の上を源氏の正妻にしたのも、左大臣が「祟り」を回避したかったからという理由で成り立ってきます。また、光源氏はこの「負けた一族」の希望の星でもあった訳です。当然、非常に優れた資質を持っていても「負けた一族」の血筋なので天皇になることはできず、「源」の姓を賜って臣籍降下せざるを得なかった。そうすると、朧月夜の件で失脚した光源氏が都に召還されたのも、権力を勝ち取ったはずの一族が、朱雀帝の眼病、弘徽殿大后の大病とその父大臣の死去と「祟り」を受けた結果、源氏を受け入れざるを得なくなったという解釈ができます。
六条御息所の霊が憑りついた相手も分かりやすくなります。葵の上は政敵の娘、紫の上と女三宮は藤壺の血縁の同族ですが、藤壺の一族も皇族として残っているから、おそらく勝ち組についていたのでしょう。御息所の霊は、もちろん、光源氏自身に直接祟ることもないし、秋好中宮が中宮となっている時代には現れていません。さらに、源氏の邸宅の六条院ですが、このうち南西の秋の町は旧御息所邸をそのまま活かして作っていて、秋好中宮の里邸としての意味を持っています。北西の冬の町は明石の君の住まいです。これに対して、南東の春の町は紫の上と女三宮が、北東の夏の町は紫の上に次ぐ妻の花散里と葵の上の子で花散里に養育された夕霧の住まいです。後に病身の紫の上は二条院に移り、女三宮も三条宮に移ります。春の町は、紫の上の養女格の明石中宮の里邸となり、その娘たちが住みます。冷泉帝退位後、子供のいない秋好中宮の里邸としての存在意義が薄れる中、六条院を相続するのは源氏の一族になりますが、御息所の霊が、一族の血を持たない紫の上と女三宮を追い出したという見方もできそうです。
華やかな祭をきっかけに始まった、ドロドロの物語があったということを紹介してみました。
ところで、この原稿を書くのに、いつもの赤坂のジョイフルでランチをしたのですが(しんけんハンバーグ+しんけんチーズハンバーグ、そこにトッピングでハーフチキンステーキを追加)、結局半日がかりで、ジムに行けず…。 それもそうだし、ホント、そろそろジムらしいネタを書かなければ…。