時代が変わっても、今なお心に残り続ける山口百恵の名曲。1977年10月1日リリース。当時山口百恵は18歳。作詞作曲のさだまさしは、依頼を受けてから2年余り忘れていて、催促されてから半年かけて作ったという。妹をイメージして作ったそうだ(その妹の佐田玲子は、未だ独身である)。百恵、さだ、どちらのファンからも、この意外な組み合わせと楽曲に、いろいろな声が上がったという。
結婚を前の引退コンサートの日、「この歌の意味がようやく分かりました」と百恵からさだにメッセージが送られたとのエピソードがある。
この楽曲は、さだのセルフカバーを始め、多くの歌い手にカバーされている。中森明菜のカバー(彼女も独身である)について、癌で亡くなった母親に花嫁姿を見せられなかったという想いが滲み出ているような歌唱になっていると感じるのは、私だけであろうか。
2コーラス+サビのリフレインがオーソドックスだった当時としては、サビのリフレインがなく、スッと終わる曲が特徴。歌い出しの情景描写から聴き手に「画」を浮かばせる。「此頃涙もろくなった母が」晩秋の少し冷える「庭先で一つ咳をする」から、ここしばらくで「老い」を感じさせるようになった母親の姿が浮かぶ。
場面が切り替わり、「縁側でアルバムを開く」母が、主人公の幼い日の「同じ」話を繰り返ししている。同じ話を繰り返すのは、忙しい母が、娘と一緒に何かした時間が少なかったことを思わせる。「ひとり言みたいに小さな声で」は、老いて声が小さくなっているのか、娘に一緒に話をして欲しいけど、無理強いしないように小さくしているのか、思い出をたくさん作ってやれなかった申し訳なさからなのか。
「こんな小春日和の穏やかな日は」の「は」が効いている。触れ合う時間の、思い出の少ない母と娘には、穏やかではない日もあって、「優しさがしみ」なかったこともあった。この「小春日和」の前には、いろいろなすれ違いやいさかいもあっただろう。この後の人生も穏やかばかりではない、凍えるような厳しい時期もあると想像させる。
ここで、「明日嫁ぐ」と設定が明かされ、「苦労はしても笑い話にときが変えるよ、心配いらない」と、人生の先輩として、仲のいい親子というのでなく、ぶつかり合ったこともある娘の親としての言葉を笑って言うのである。
2コーラス目は、娘である主人公のモノローグから。わがままを言って、何度も反発して、分かってもらえないと思った日もあったけれど、それを含めて、いつも寄り添っていた母の気持ちに気づかされ、それを分かっていなかった自分を悔やむ。
ここで、また状況。ケンカをするくらいだから、どこか母親は友達みたいな存在でもある。息の合った荷造りしながら、笑う2人が浮かぶ。
泣かせるのは、ここ。「突然涙こぼし元気でと」。今は、結婚しても、しょっちゅう実家に行く方も多いし、連絡も気軽に携帯もメールもLINEとかあるけど、「嫁ぐ」という言葉の通り、当時は、実家から離れて婚家の人間になるという意識だったので、そうそう実家には行けない、会えないという感じな訳ですよ。この半分祈るような「元気で」を「何度も何度も繰り返す」で、思わずもらい泣きしてしまうのです(書いているだけでも、涙ぐむ)。
で、今回の本題。この次のサビの「ありがとう」です。私、この「ありがとう」を、ずっと娘から母への言葉だと思っていたのですよ。でも、よくよく考えてみると、自分の言葉を「かみしめながら」っていうのは、どうも違う。そうすると、これは、母の言葉ではないか。では、何についての「ありがとう」なのか。「娘に生まれてきてくれて、ありがとう」「娘でいてくれて、ありがとう」「こんないい娘になってくれてありがとう」…。万感の想いを込めての娘への「ありがとう」。そこにはさらに、周囲の人々への「私たちがこんなにいい母娘になるために支えてくださってありがとう」だったり、もっと大きな存在に向けての「こんないい娘を与えてくださってありがとう」だったり…も込められていて、その全てに向けられた、母の「ありがとう」という感謝をかみしめて、私もそんな「感謝」を忘れないように生きていくと。
最後がいいですね。そんな母を誇りに思い、「もう少しあなたの子どもでいさせてください」。
ああ、もう限界。泣いちゃうので、今回はここまで。
泣いちゃったので、書かなければならないことを追記。
でも、文脈的には、母は「元気で」と何度も繰り返しているので、やはり、娘の言葉と取るのが自然。でも、「かみしめ」。そうすると、また違った情景が浮かんできます。すれ違う母娘で、この期に及んでも、娘はどこか素直になれない。だから、「ありがとう」と母に、声にして言えなかった。言えなかった「ありがとう」を、自分の中でかみしめて、だから、その「ありがとう」が言えるまで、「もう少しあなたの子どもでいさせてください」。そういう解釈もまた、泣けてくる。
ラストにもう1つ。「私なりに」というのは、母とは違うということ。だからこそ、1コーラス目の「は」における、いつも穏やかではなかったことからもつながる。
おそらく、さだは百恵の生い立ち(ここでは詳しくは書かない)を意識してはいたと思う。なので、父が不在の状況と、母の生き方を全面的には肯定しない娘という前提をおいて、構成しているのではないか。わざわざ「私なりに」と加えたことで、イメージは妹佐田玲子でも、しっかりと百恵の曲になった。
さだのつけたタイトルは『小春日和』だったのだが、そのタイトルだったら、ここまで残る曲になっていただろうか。プロデューサー酒井政利の提案で『秋桜』にし、その読みも、さだが「あきざくら」とするつもりであったものを「コスモス」としたからこそ、印象に残ったように思える。コスモスの漢字を秋桜とするのが一般化したのは、この曲からである。