何とか今年も、ギリギリで乗り切りました、税務申告。
引きこもり中は作業せず(PCがスタジオにあるから、)営業再開とともにようやく手をつけたのはいいのだけれど、外に出始めると意外と雑用が増えて、作業が進まず。29日の夕方に税務署に電話して、30日10時に予約を入れたはいいのだけれど、この時点で入力しか終わっておりませんでした。試算表が未確認でして、試算表の問題をすべて解決し終わって、計算が完全に合ったのは、22時過ぎでございました。それから、書類を整理して、帰宅したのは午前様。当日は早起きして、朝マックしながら、スタンプ台で書類に会社所在地と会社名などを押しまくり、書ける範囲は何とか記入して、銀行寄って税務署に着いたのが10時ちょうど。綱渡りでございます。 とはいえ、無事に申告、及び法人県民税、法人市民税の納付も完了。
「富士山麓にオウムが鳴いて、長い日本の闇にもようやく夜明けが訪れたのだわ。さあ、喪服を脱いで出掛けよう!」
的な気分でございます。
あとは、都知事選の期日前投票にテキトーに行って来なければ。 前置きが長くなりましたが、この原稿、先週始めには書き上がっていたのです。でも、バランス的に食べ物の思い出の記事を先に上げておいて、で、そのあと地獄の決算、税務申告で、全く余裕がなくなりでございました。
前置きが長くなったが、渡辺麻友の引退について書いた後、彼女以前にもアイドルを全うして潔く引退した方を思い出した。恋愛、結婚が理由ではなく芸能界引退して、全くその後の姿を見せないアイドルは、「教育関係の仕事をする」と言って引退したBerryz工房の嗣永桃子、そして「芸能界にいる理由がなくなって、自分の人生を生きる」という乃木坂46の橋本奈々未である。
AKB48の公式ライバルとして結成された乃木坂46、今やAKB48よりも俄然勢いがあるグループとなった感があるが、個人的にはそれほど関心があった訳ではない。公式ライバルとして、48グループよりも、ある意味「厳選」された可愛い子で構成されたのも当然であるし、まさに「きれいなお姉さん」達の団体という、漠然としたイメージしかなかった。
初めて、真剣に聴いてみたのが、この曲『サヨナラの意味』。最初で最後のセンター橋本奈々未の卒業だった。彼女の芸能界入りのきっかけが、当時生活が苦しかったのでロケ弁欲しさというエピソードがある。初期の彼女がショートカットなのは、美容院代を浮かせるためにカットモデルをしていたからであるというエピソードもあり、彼女にとってはビジネスとしての乃木坂46であったのだろう。
そして、家計を支える必要がなくなったので、普通の生活に戻りたいというのにも(彼女の母親の「無理をしないで好きなことをしてください」という言葉もある意味、稼げる娘がいたら「もっともっと」となりそうなのに、娘の気持ちを優先できることがすごいと思う)、驚きとある種の感動を覚えた。その言葉通り、卒業、引退後のはっきりとした音信がないことも、潔いと思う。
この卒業シングルであり、初のセンター曲の『サヨナラの意味』のMVが、また素晴らしかった。
率直に言えば、この曲のMVとしては、曲のイメージを超え過ぎていて、MVとしての出来はどうかとも思える。けれど、楽曲の出来、MVの出来、それぞれのレベルが高い。
まず、楽曲から。構成は、1コーラス2コーラスとも、A-A-B-サビ-サビ´で、その後におかずを1つ増やしたCメロが長めに入った後に、さらに変則的サビ(大サビ導入)´´、そこからサビ-また違う変則大サビ(頂上展開)という、実に贅沢なゴージャスな作り。比較的落ち着いて入るAメロ、掛け合い展開から徐々に盛り上げていくBメロ、そして印象的なサビ、一度雰囲気を変えて、まさに「切なさ」を表しながら、これだけでもサビとして使えそうなものを惜しげなくたっぷりと使ったCメロ、サビが同じ形でなく、形を変えながら繰り返されて「やり切った!」で終わるエンディングも、いかに橋本奈々未さんの卒業にスタッフが力を入れたか分かる傑作である。もちろん、秋元康の詞も、卒業にふさわしい言葉選びで、完成度が高い。「思い出は今いる場所に置いて行こうよ」は、全く違った曲調であるが、AKB48の大島優子の卒業シングル『前しか向かねえ』の「旅立ちの時 思い出は捨てて行け!」と同趣である。
とはいえ、歌詞はかなり難解で、分かりやすい言葉が並んでいるのに、その解釈は受け手によって変わるであろうことを想定して作られている。「守りたかった愛に代わるもの」というフレーズだけでも、受け手によって答えが変わるだろう。ということで、まずは、この曲を目を閉じてじっくりと聴いてほしい。
さて、MVだが、ちょっとした短編映画のような作り。いわゆる「普通の人間」と「棘人(しじん)」と呼ばれる感情の昂りで身体から棘の出る種族とが共存している小さな町が舞台である。
かつて争っていた「人間」と「棘人」が、年に1度行う儀式(人間が棘人の棘を刀で切り落とす)の催行のため、切り落とす役(男役)の西野七瀬と代表して切り落とされる棘人の橋本奈々未を中心として、ストーリーが展開する。橋本奈々未の父親役として嶋田久作がゲスト出演、物語に深みを与えている。実際のストーリーについては、YouTubeで公開されているMVを見ていただきたい。
この世界では、多数派である「普通の人間」が優位であり、少数派である「棘人」が、それに抑えられながら共存している。しかし、実際は、対個々人として、「棘」という「武器」を持つ「棘人」を「普通の人間」は怖れているのがうかがえる。かつて争っていたときに、少数である「棘人」に多くを傷つけられた「普通の人間」が、その歴史から「棘人」を「契約」の元で、その自治を許しながらも、あくまでも「普通の人間」の「統治」の元で共存させている状態である。嶋田久作が、儀式の世話役をしながら、「普通の人間」の世界とかかわることを嫌う姿から、決して心底から「棘人」一族が、「普通の人間」と融和していないことが分かる)。
彼女たちの世代においても、町で見慣れぬ「棘人」の女の子たちを見た「普通の人間」の女の子たちが、「あの人たち、誰?」「あの人たちって『あの人たち』」「あぁ、『あの人たち』」というやり取りをしていることから、「普通の女の子」は「棘人の女の子」に対して「近寄りたくない」「見なくてもいい」ものとしている。視線を感じた「棘人の女の子」が「普通の女の子」に笑顔で手を振るのとは、対照的である。個々での身体能力に勝る「棘人」の女の子は、「普通」の女の子に対して、敵対心や防衛心を持っていない。
とはいえ、儀式のリハーサルで、「普通」の女の子の1人がビデオ撮影したことに「見せ物ではない」とのような表情で反発し、棘を出して傷つける奈々未の妹の行動から、「特別なもの」として扱われることへの苛立ちも滲む。種族が違っていても、同じような「心」を持つということに気がつき、七瀬と奈々未は心を通わせるようになり、七瀬は「棘人」との関係を変えていくことを、「儀式」で「棘を切り落とす」ことをやめ、奈々未の顔を覆う紙(これは、『棘人』の姿を隠すことを象徴)を取り、それを紙飛行機にして飛ばすということで、「普通の人間」と「棘人」との未来へ向けての融和を暗示する。
そして、大ラス、橋本奈々未が姿を消すのが、彼女の新しい世界への旅立ちを、楽曲と現実と重ね合わせている。解釈は広がる。マイノリティとの共存というテーマは、まさに現代社会の大きな課題である。
とにかく、この作品は、楽曲もMVも力作である。橋本奈々未という存在が制作陣にここまでの作品を作らせたともいえるし、この楽曲をきっかけにして、その後の乃木坂46の快進撃がスタートするのも納得できる大傑作である。渡辺麻友の卒業シングル『11月のアンクレット』も悪い楽曲ではないけれど、渡辺麻友のイメージをよくも悪くも超えない楽曲であるのに対し、この楽曲は橋本奈々未である必然性を持ちながら、それを超える普遍性を備えている。それは、渡辺麻友があくまでも「正統派アイドル」の美少女が、そのまま美人になったのに対し、彼女は最初から完成された「毅然とした美しさ」を備えていたからとも言えよう。
さて、この楽曲とは直接は関係ないが、橋本奈々未ソロ曲『ないものねだり』、卒業コンサートで歌われるときに、彼女はこうコメントしている。
「私は、『ないものねだり』っていう曲を歌っているけど、『ないものねだりしたくない』と歌っているけど、こんなに素敵な景色をを何度も何度も目の前にしているのに、別の道を進みたいと思うのが、一番ないものねだりだなと感じています。たぶん、私が選んだその先に、正解があると信じています。(中略)私が選んだ道が正解であることを願い、今日、みなさんが私とお別れして、その先に、みなさんの道に、楽しいこと、うれしいこと、幸せなこと、これで良かったと思えることがたくさんあることを願っています」
と。彼女らしいコメントであるし、秋元康が、それでも「ないものねだりしたくない」と書かざるを得なかった惜別の気持ち、エールを送る気持ちを理解した上でのコメントだと思える。それほどまでに、秋元康を始め、スタッフに彼女は愛されていたのだ。
付記
ここまで読み返してみて、この素晴らしい楽曲を産み出した制作陣の原動力を考えてみた。
おそらく「芸能界で仕事がしたい」「アイドルになりたい」という、「やりたいこと、好きなことを仕事にしている」大多数のメンバーに対して、彼女は「好きじゃないこと」を、あくまでもお金を稼ぐために仕事にしていた。途中で仕事との両立が難しくなり、美大を中退して仕事に専念している「職業としてのアイドル」であった。
初期には「御三家」と呼ばれ、その後もファーストシングルから一度も福神を外れることない人気を持っていたけれど、本人の希望もあったのか、卒業シングルまでセンターはなかった。が、聡明な彼女は仕事を冷静に客観視することができ、スタッフに何を要求されているかを即座に判断し、それにしっかりと応えていたのだと思う。卒業後も芸能界に残るメンバーや、そこまでの人気をつかむことなく、引退したメンバーと違い、人気(それと女優としてのポテンシャル)があるにもかかわらず、未練なく芸能界から去ることを決めた。それゆえ、送り出すスタッフも、これまでの彼女の仕事に応えるべく、相当の力を入れて、この『サヨナラの意味』を制作したのだと思う。
卒業シングル表題曲で、しっかりと「卒業」をテーマにしながら、ここまで高いレベルの楽曲に仕上げたのは、48グループ、坂道グループ全体を見渡しても他に見当たらない。解散、引退で、ラストシングルをリリースするにも、それなりの人気を維持していなければ難しい。人気がなくなってからの引退では、ラストシングルというのを意識して制作されず、なし崩し的な消え方になるというのもある。
ラストシングルの表題曲で、「別れ」を意識した内容になっているのは、古くはキャンディーズの『微笑がえし』、山口百恵の『さよならの向う側』、ちょっと企画物となるが風間三姉妹の『Remember』になるし、グループからの卒業でもおニャン子クラブの『じゃあね』、あとは、大島優子の『前しか向かねえ』と指原莉乃の『ジワるDAYS』(AKB48自体が盛り下がっている時期なので、そこまで話題にならなかったのも痛い)あたりになろうか。AKB48の神7でも、単独センターの表題曲で、明確に「卒業」を意識してのラストシングルは『前しか向かねえ』で、『シュートサイン』は微妙である。
名曲『さよならの向う側』はファンに向けての感謝を全面に出しているから、名曲だけれど普遍性に欠けるきらいがあるが、『サヨナラの意味』は橋本奈々未の卒業を超えた普遍性を持つ楽曲であるから、ファンだけでない、多くのオーディエンスに向けられている分、それを超えていると、個人的には考える(大島優子の『前しか向かねえ』も悪くはないんだけれど、AKB48における大島優子のキャラクターを全面に出しすぎていて、しっとりと人生における「別れと旅立ち」と味わうには、ちょっと違ってくる感じがある)。
彼女のこれからの人生に、「彼女にとっての幸」多からむことを。
さらに追記
今日のネットニュースで、彼女が新規オープンした美容院のインスタグラムに、お祝いの花束を持ってきている画像がアップされていた。引退後、初の画像ではないだろうか。
マスク姿で、顔全体は写っていない。
彼女のことだ。おそらく懇意にしている美容師さんのために、マスク姿でもいいなら、と貢献しようとしたのだろう。
とはいえ、相変わらず、現在の彼女の生活などはわからない。
それでいいと思う。表舞台に出ないと決めた彼女が、自分が宣伝になるならと、ただマスク姿までで顔全部をみせなかったのは、いかにも彼女らしい。
#橋本奈々未
#乃木坂46
#サヨナラの意味