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文と解釈~表現者と受け手との間に

先日、Eテレの『俳句王国がゆく』という番組をうちに遊びに来ていた取締役の杉田が見ていて、なんとなく家事をしながらそれを聴いていた後、NHKドキュメンタリーの『夏井いつき 俳句の種をまく』の再放送があったので、そちらはしっかりと見た。

去年「句会ライヴ」に行ったときにも書いたのだが、私は俳句の作句が苦手である。なぜにこんなに苦手なのか、それを「あっ!」と思わせてくれたのが、先日の『津軽海峡・冬景色』のレビューについて、「長い!」とおっしゃったお客様の言葉である。

「最小の文学」と言われる俳句の場合、基本17音しかないので、伝えられるのは「感動の対象」だけで、「悲しい」とか「愛してる」とか、そういう言葉は入る余地がない。俳句に作者の思いを込めるのは、そこにある言葉(特に季語)の微妙なニュアンスだけである。その点、和歌(短歌)だと、もう17音増やせるので、感情を入れることができる。俳句では「さあ、どう受け取りましたか?」はあなた任せなので、句会ライブでもいろんな解釈が出て、それはそれで面白い。

たとえば、百人一首から、

 

奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき

 

という短歌を俳句に変えると分かりやすい。奥山に紅葉踏み分け鹿ぞ鳴くで、いいですかね。「鳴く」で声であることは分かるし、「紅葉」は秋の季語なので秋も不要。気持ちを表す言葉は入れないので「悲しき」も外れる。いい俳句かどうかは別として、「悲しい」かどうかは読み手次第である。もしかしたら、きれいな色とりどりの紅葉と鹿の取り合わせは優雅で美しくて、悲しいと思わないかもしれない。私なら、「鳴く」をひらがな表記にして「鳴く」だけじゃなく、「泣く」を連想させるようにするかなぁ。

そもそも、短歌なら、見える事物さえ言わなくてもいいので、例えば

 

あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今一度の 逢ふこともがな

 

で良いのである。それでも、31音ではやはり制限がある。やはり、和歌が苦手だった清少納言を引き合いに出すのもおこがましいが、感動の対象だけを「ポン」と出して、「これ、すげえ!」だけでは終われない性格なのである。言ってみれば、「中宮(定子)様、すごいっ!」だけでなく、なぜすごいのか、どうすごいのか、そこを説明したくなるのが清少納言で、それは『枕草子』という随筆の形を取るしかなかった。

私も、「あなた任せ」にできないタイプで、それに、なぜ感動したか、どう感動したか、そこを伝えたい、というのが、私の文章が長くなる原因だと思い当たったのだ。その根底には、たぶん、「私を分かって欲しい」というのがあるのだろう。(と書きながら矛盾だが、私はどこかで「分かる人にだけ分かってもらえればいい」とも思っている。なので、ここはあえて「のだろう」にした。)  

さて、このブログで度々取り上げられる、「歌」であるが、当然、通常は長くて5分程度に収めなければならない(これは、その昔、歌をレコードで聴いていた時代、シングル曲の標準であったドーナツ盤が45回転で、それなりの音質で収録する場合、5分弱が限界だったことによる名残とも言える)ので、ある程度、制限のあるものと言える。限られた「歌詞」に「旋律」「アレンジ」が加わることで、世界が広がる一方、伝えたい「気持ち」を表すことができるのだと思う。

 

ここ十数年、紅白歌合戦で石川さゆりは『津軽海峡・冬景色』と『天城越え』を交互に歌っている。去年は『津軽海峡・冬景色』であったが、もう一つの『天城越え』のエピソードから。この曲は石川さゆりのために、作詞家吉岡治、作曲家弦哲也、編曲家桜庭伸幸が伊豆で合宿して、作った曲である。

少し前に、作曲家の弦哲也がこの曲の制作について話をしていたが、今までにないものにしたい、そこで、まず強い歌詞「あなたを殺していいですか」が書かれ、最初はそれに合わせて曲も叩きつけるように叫ぶフレーズをつけたという。そこで、弦哲也がそのフレーズを歌ったのだが、天童よしみや島津亜矢あたり、まあ坂本冬美なら合うかという「これでもか」と声を張り上げる感じだった。が、そこで、「何か違う」ということになって、石川さゆりならではの、可愛げのある感じだからこそ歌詞の怖さが滲む、今のメロディになったということだった。

確かに、石川さゆりの歌唱は、ここをどこか可愛らしく(特にここ最近の歌唱は「あなたを殺していいですか?♡」くらいに歌っているような感じがする)、だからこそ女の怖さがより強調される。同じ歌詞でもメロディを変えることで、違う印象になる典型例だった。(それにしても、『天城越え』って、エロい。ホント、18禁にしたいくらい大人の歌である。)

これも、表現者としての作詞家、作曲家、編曲家、さらに歌い手で「世界」を作って伝えるという例になると思う。文字だけでは伝え切れない「世界」である。

 

文だけからだと、その文の読み手が、どう解釈するか、あるいは表現としてどうとらえるか、かなり幅が出る。

例えば、サスペンスドラマにおいての次の2つのシーンの台詞を考えると、脚本に対して監督がどう解釈して、役者がどう表現するか、いくつかのパターンが考えられる。

 

シーン1 人を殺した女とそこにきた男

男「死んでる! どうして、こんなことを!?」

女「あなたのために…。あなたを愛しているから…。」

 

シーン2 女が男を刺す

男「どうして…?」

女「あなたが裏切ったから。でも、あなたを愛しているから誰にも渡さない。…これで、あなたは私だけのもの…。」

 

どちらも、男はともかく、このときの女優の演技

① 泣きじゃくるように

② 感情を抑えて怒ったように

③ 嬉しそうに笑って甘えるように

で、かなり変わる。

①は単に憐れで悲しい感じだから二流どころの女優でいい(しかも、男を殺すのを失敗しそう)が、②だともう少し複雑な感情を押し殺してになるし、怒った顔が似合う吉高由里子、戸田恵梨香、石原さとみあたりが合いそう。③は「イッちゃってる」浅野温子や中島朋子はもちろん怖いが、なんか普段楽しそうな大竹しのぶ、深田恭子や大島優子がやるとさらに怖い…。そう、人によるかもしれないが、一番怖い、いや恐ろしいのは「狂気の笑顔」ではなかろうか。

これだけで、同じ脚本でもドラマの印象は全く変わってくるだろう。①ならサスペンスというよりも悲しい女の物語になりそうだし、②なら普通にサスペンス、③だともはやサイコホラーである。

では、書き手としての表現の差とはどんなものかを考えると、原案「原材料」が同じでも、少し脚色を加えるだけで、違うテーマの作品にすることがある。

原材料は日本各地で多少異なる部分もあるが、助けられた鶴が恩返しをするが、やがて約束を破られて正体を見られ去っていくという『鶴の恩返し』。助けるのが、おじいさんか若い男(このパターンは「鶴女房」というタイトルになることが多い)という違いはあるが、禁を破って「覗く」、結果、鶴が去っていくというのは同じである。

これをおじいさんに助けられた鶴が、子供のいないおじいさんとおばあさんのところにやってきて、娘として一緒に暮らす、暮らしを豊かにするために布を織って痩せていく、おばあさんが娘を心配して、つい覗いてしまうという流れにするか、戯曲『夕鶴』のように「儲かる」と興味を示した商人が現れて、「布の織り方が分かれば、たくさん作れてもっと儲かるから、その秘密を知ろう」として覗いたという流れにするかで、全く話のテーマが変わってしまう。

これを国語の問題にして、「去って行った鶴(娘)の気持ちを書きなさい」という問題にしたとき、善意からきた前者なら、「一緒に幸せに暮らしていけると思っていたのに、別れなければならなくなって、悲しい気持ち」くらいでいいが、後者なら全く違う。モノローグとして書けば、「確かに男は私を助けてくれた。けれど、罠を仕掛けたのも人間、人間は欲が深くて怖いものだ。あの男も結局は人間だった。私はやるべきことはやって恩は返した。もう思い残すことはない。これからは、人間と関わらないようにしよう。」くらいだろうか。人間の優しさよりも、醜さ愚かさを強調するのが後者と言える。

 

ということで。今回も、またまたそれなりの長さになってしまいましたが、「なぜ、長くなりがちなのか」ご理解くださると幸いです。まあ、長くなるときは、分割するようにします(そうすると、本数も稼げるので、ブログの更新が頻繁に行われているように見える)。

 

これからも、よろしくお願いいたします。